愛する命を無くして、生きる事は罪じゃないですよね
こんばんは。
まじゅ姉さんに触れることができなくなって随分と経ちました。
でも、まだまだ辛いです。今も、この時も、まじゅ姉さんのアイコンを見ると動悸がはげしくなり画面が薄ぼんやりとします。
このブログに登場する小さな猫の存在は私にとってとても大きく、心の支えでした。今もTVの横にまじゅ姉さんの骨を少し入れたぬいぐるみがいます。
急にまた始めようと思ったのは、今日仕事場に迷い込んだ苦しそうな猫を見送った断裁です。
今わたしの傍には、まじゅ姉さんによく似たシャム系の元野良がいます。保護猫です。私はまじゅ姉さんの代わりを求めたのです。
罪ですかね。ダメですね。
だめついでに私は苦しそうなその子を救う判断をしませんでした。
経済的にも、今の子がネココロナウイルス所持であるためや、いろんな状況でその命を棄てました。言い訳といえばいいわけです。
ふと、
このブログが脳裏を過りました。ずっと気になってはいたんです。
まだ見てくれる人がいました。
私が見れなかったこのブログ。
これは私があの子の命と正面から向き合い、あの頃の私の精一杯でした。
そして命が尽きたと同時に見れなくなった。
でも命と向き合うために、これを見てくれている人がいる。
あの頃と変わらず私はへなちょこで、生きるので精一杯です。
ですがまた、命と向き合う事を始めようと思います。
ブログも一新したいと思います。
メガネが涙でシミまみれで、更新ってどんなだよw
って感じですが、今私に必要な事だと思ったんです。(私はバカなので辛い事へ頭から突っ込んでいくタイプなんです。でも強くないので泣いてばかりです)
慢性腎不全の猫を抱えて途方に暮れる人がいると思います。
そのほかの病気を抱えた生き物のそばにいる事が辛い人もいると思います。
それでも愛しているから苦しいんですよね。
生き物はそれぞれの寿命を持っている。それは私もあなたも苦しんでるその子も同じ。
あなたも私もわかってるんですけど、受け入れられないんですよね。
無理に乗り越えなくてもいいんじゃないですかね。
って自分に言いたい。だって愛していたからまだあの子の香りがして指先にはあの子の骨ばった身体があって、今の子と重ねて、
ああもうあの子はいないんだっと思い知って泣く。
そういう愛情を抱えて生きていくのもいいかもしれませんね。
今日の息を荒げたあの子は苦しかっただろう。
すぐにいなくなったってしまったけれど、あなたの命は私のココにあります。
私などではあなたの生きた証にはならないけれど、私はあなたを失くして悲しいです。
またどこかで会えたら、触れさせてね。
生きてくれてありがとう。