猫との生活は孤独に寄り添えるのか
こんばんは
毎回泣きながら書いてます(笑)
これはまじゅ姉さんの闘病記録なので、5年以上経っても亡くなった子を想い震える人間の葛藤を書いていってもいいんじゃないかって思ってます。ようやく向き合っているんだと思います。向き合わないといけない時なんだと思います。
これは個人の愛したモノの死と向き合う記録です。
他の猫を飼い始めて3年も経つのに、まだあの子を思うと呼吸ができなくなる。今の子も愛していますよ。もちろん。
でもまじゅ姉さんは、辛くて辛くて仕方がなかった20年近い時間を一緒に過ごしてくれた。最愛の命です。
私はその日々と正面から向き合い、乗り越えなくてはならないと心の奥底で思えるようになりました。
生き物は産まれた瞬間から孤独
「生まれる」とはどこからなんでしょうか。母のお腹で親の声を聞く頃からでしょうか。呼吸を初めた、自発した瞬間からでしょうか。「孤独」とわかってしまった時からでしょうか。
高校生の頃「私とあなた達親とは違う生き物で他人なんだ!」と言って殴られました。
若いですね。でも私はすぐそう言う事を言ってしまう。
今でも「孤独」「独り」そう思う事で愛されない事を正当化しています。
助けを求めても得られない事を正当化しています。
否定される事を正当化しています。
助けない事を正当化しています。
「だってあの時誰も助けてくれなかったじゃないか‼︎」
そう言って泣きじゃくる、裸の汚れきった子供を私は触れることもできず飼っています。
そんな子供のそばへは、まじゅ姉さんしか今でも近寄れません。
この子供を綺麗に洗って抱きしめる事ができたら、まじゅ姉さんを天国へ返せるのでしょうね。とても難しいです。
これが私の孤独のカタチです。
独りは辛いけど怖い
私は以外に昔から社交的です。よく笑いますし、誰とでも屈託なく話せます。
「え?」とこの文章を見ている人は思うと思います。文章だけで会話していた人と初めて会うと「もっと怖い人だと思っていました」と言われます。この間も「暗くて、思い詰めた人が来たらどうしようかと思いました」って真顔で言われました。
皆さんもそんなイメージですか?
私の本質はここにあります。暗く想像しても仕方がない事を考えて思い詰めて自爆します。だから自分の時間に人が介入してくるのは、たまにでないと辛いです。
外交には本質は不必要だから、ヘラヘラ笑う事で自分を守ってきました。
でも歳をとり老兵には老兵の戦い方がある事がわかり、たまに「怖い」私が出てきます。もう、いいかなって少し考えが変わってきたからかもしれません。
仕事に心情を挟むのは疲れるし「仕事だからで割り切れなくなる」のでしんどくなるから。「私はあなたの仕事を引き受けてあなたへ尽くしていますから、私の分も引き取ってよ」って心で思っていたって、上司には言えない(笑)
想いを寄せる人にそれをするのは余計に嫌。
相手へ求めるものが大きすぎると期待値が大きくなる。
なんで人間には多くを求めようとするんでしょうか。求めれば求めるほど孤独になるのに理解できる幻想を抱いてしまう。
猫には生きることしか望まないのに(笑)
生き物はエゴイストです。自己中心的です。
「愛して!愛して!私だけを愛して!」
「キュッとして!」
そういう感情がストレートに伝わってくる。
彼らは暖かい。ものすごく暖かい。涙が出るほど暖かい。
平均体温38度の体温は伊達ではないです。
人に向き合えない、疲れた。人がわからない。
そう疲れ果てた時、生き物の体温が暖かいことに涙する事がある。
飼う必要はないと思います。触れ合える場所はたくさんある。気まぐれに触れてくれる命は暖かい。接待してくれる人とはまた別の優しさがありますよ。
でもね。忘れないでほしい。
体温を感じる事ができるのは、自分も暖かいからなんですよ。
人間もエゴイストなんですよ。私もあなたも。
自分を正当化する。その行為で救われる命と、あなたや私がいるならそれでいいじゃないですか。
私は孤独ではないよ。
そう。
そうなんです。
保護猫と野良猫。
こんばんは
昔書いたものを少しだけ見たんですが、ページが壊れまくっててすいません。
うんちの話とか、皆さんが困っている内容とかを修正したいんですけど、まだ読み返せ無くてなおせていません。
少しづつ昔の記事とか、今、若い猫と暮らしていて、慢性腎不全の猫と向き合いすぎて気づけなかった事を書けたらと思います。
少しはお役に立てますかね。
※今回は少し直接的に死について書いていますので、今苦しい人は見ないでください。
私の新しい家族も保護猫です。
まじゅ姉さんと出会ったのは20年以上前なので、その頃は「保護」では無く「拾ったからもらって」が大半でした。
昔から野良猫を見る事はありましたが、私は自分から保護活動をするタイプの人間ではありません。
命は消えるものだと割り切る事に決めたから。
私の力では1匹の猫と自分を守る事で精一杯です。
その線引きは自分でするものなので自分でしました。守れるものが少なすぎて辛いです。
だから保護活動をする人を賛美する事もしたくありません。他の人に命を繋ぐ事も大切ですが、拾い上げた命を他者に委ねる事を前提にしたその行動を「救う」という言葉で括る事に疑問があるからです。
全ては救えないんです。
思いの度合いも違う。本当に人によって考え方が違う。だから私は歯がゆい。
自分の想いを伝えるのは自由ですが、良い方向の思いまで、自分の価値観で縛るのは違うと思います。どんな活動もその人がそうしたいからしているだけ。
それでいいと思います。他者へ手を差し伸べる事ができる人を、偽善呼ぶ人もいるかもしれませんが、何もしないのは悪です。
だけど私は一つの命と寄り添い守り慈しみたい。
愛情の方向が違うのでぶつかります。それでもいい。考えて考えた結論がぶつかるのは、人だから。
一つの命と魂が擦り切れるまで向き合う事。それが私の命との向き合い方です。不器用すぎるんですけどね。
私にはたくさんの命とそこまで向き合う心がありません。保護した猫全てが気になって、私自身が死んでしまう。死んだ猫を思い心が潰れる。弱い人間なんです。
「救う」ってどういう事なんでしょうか。
「救われる」ってどういう事なんでしょうね。
ペットを飼うのは人間のエゴ
そういう言葉をネットでよく見ます。
エゴとはなんでしょう。
なぜか私は亡くなった猫の姿を見る事がありました。人の手が入った悪意のあるものもありました。ついこの間も。このブログを再開したキッカケです。
私は救いませんでした。
その子は毒を盛られたようでした。すがるように私を見上げ、声も出せず、不安に怯える猫へ言葉を掛けるだけでした。
「ああ。ごめんね。苦しいね。痛いね。ごめんね」
そう声を掛ける事しかできませんでした。仕事中でしたから差し伸べる手がなかった。
もう一度見に行った時にはいませんでした。「毛玉を飲んだんだ」そう思う事で私は逃げた。ですが、多分、その後すぐに2度と戻らないところへ行った。
それが1週間ほど前でした。この季節。想像しないでくださいね。
かわり果てた姿で見つかったその日に、私は家に帰って猫を抱きしめ子どものように泣きました。
「あなたにはあんな思いはさせない!絶対させない!!愛してる!」
バカですね。
この2匹の間に違いはありません。外で生まれました。もう1匹は保護され、もう1匹は外で飼われていました。
私は人間の親から生まれました。決して幸せな人生ではありませんでしたし、良い人たちではありませんでした。今も誰にもどこにも拾われていませんが(笑)1人で野良のように生きています。前向きに生きる努力をしています。
そうなろうと思えているのは、猫に魂を拾われたからです。
私は猫バカなので、部屋を決めるのも苦労しました。猫可の物件って少なすぎますよね。「あの家黙って猫飼ってる!」「こんな狭い部屋に?」って言われるのが嫌だったから頑張りましたよ。保険なんて自分は入っていないのにペット保険にはすぐに入りましたから(笑)
自分が死んだ時のために、預金先も決めています。
ですが保護活動をしている人からすれば私は譲渡対象にはなりません。一人暮らしだから。
譲り受けた頃は1人ではなかったんですけどね。
人生は変わる。
環境も変わる。
環境は自分で変える事ができる!
それは人間の言葉。
生き物はそうはいかないと私は思います。
野良猫の行動範囲は決まっていますよね。その環境は人間が作ったものです。
人間が生きるための環境です。
でもそこは野良猫にとっては自然の世界なんです。
人間のエゴを取り除いた世界はどこにありますか?
考えて欲しいです。
日本人の頭で、考えて欲しいです。
私も考えます。考えましょう。
否定をするだけではない解決方法を考えましょう。
綺麗事でいい。綺麗事を現実にしたいよ。綺麗事さえ言えな社会をどう改善するの?
私は余裕のある生き方をして、でも!だって!と言わない人間になりたい。
生き物の死を「汚!」「気持ち悪!」そういって笑いながら蹴飛ばす人間にはなりたくない。
私の愛しい猫だけを考えるのではなく、人にも優しくできる人間になりたい。
自己改善ばかりですいません。そのくらい余裕がずっとないです。いい人になりたいな。
救えるモノを増やしたい。自分も含めて。
とりとめのない文章ですいません。